☆ 苦労多かった創設当時
1.間借りの間借りで出発
都立雪谷高等女学校に併置ということで、7名の職員、246名の全員女子の新入生を迎えて開校。 併置された雪谷高女が戦災で全焼しているため、ともに東調布第一小学校に間借り、老朽教室2室と講堂裏の楽屋にあたる部屋を借りての発足であった。当時は大森七中も同居というわけで、授業始終のベルや鐘が、各学校おもいおもいに鳴り、騒々しさといったらなかったといわれる。 また、男女共学がうたわれる中で、新入生も女子のみというのも異色であった。女子校に併置というわけで、父母は男子のための設備が不十分であるという点を心配したためであろう。したがって、クラス名称も、季節の花名を全校から募集して、藤・蘭・萩・菊組とし、その後数年間はこの名で親しまれ愛称されてきた。昭和22年6月、雪谷高女が新築校舎へ移転、23年4月には、生徒増に伴い久原小学校に分校設置、かけもち授業の苦労が続いた。 昭和24年4月、旧雪谷高女跡地に待望の新校舎落成。「僕らは雪高や久原小から机や椅子をもって蟻のようにぞろぞろ歩いてきて、遠くから見えた学校はまるで後光がさしてみえたものだ」と当時の生徒は述べている。しかし、全校生徒を収容できず、1年の2学級は雪谷高校で授業継続。これを見かねたPTAの尽力によって2学級分の図書館が建設され、24年12月分校を廃止。初めて全校水入らずの学校生活に入ったのである。しかし、なお生徒の増加は教室の不足を生み、大変不便な日々が続くのである。そのころの様子を10周年記念誌には、つぎのように述べられている。 「特別教室は音楽室のみ、理科実験器具なども小さな戸棚に一つ職員室の片隅に置かれ、満足な実験など何一つできぬ有様、職員室3/4を戸棚を一列に並べて仕切り普通教室にしたので、そこで授業をする先生は、授業内容が職員室に筒ぬけで毎時間が研究授業という有様であった。また、毎朝の打ち合わせは、立ったまま話を聞いたものです。」
2.校庭整備の思い出 新校舎建設当時、校庭は、中央と東西に都道が貫通していて、そのうえ平坦ではなく、道路より南側の半分は戦前より塵芥集積場であり、残り半分は、窪地で水がたまり養魚池にでもすればよいようであった。外柵はなく、どこからでも人が入ってきて遊び、中央の貫通道路には、授業中でも、自動車・自転車・肥料を積んだリヤカーが通ることさえあった。そこで、都に再三交渉をし廃道としたが、整地は3ヶ月かかって地ならしをし、窪地には塵芥を埋め、さらにハエのわくことを恐れて、その予防として毎日土をかけることにしたが、大変な仕事であった。という。
3.学区域確定の苦心(第二代、中橋校長は述べている。) 「学区域問題になって行き詰まった。雪谷南町会は、大森七中の学区域になっていたので、先方の後援会はこれを大森九中の学区域にしたくないと奔走中であった。私は今の場所に建設される以上は雪谷全域を含むべきで、南町会が学区域にならなければ存在価値はないと考え、何回となく談合、ある日の如きは、七中後援会幹部と役所のかたがたと、午後1時から12時までも会議をもったこともあった。かくして、3転4転したが、ようやく私どもの意見が認められ、今のように決まったのである。」
昭和25年9月1日 「大田区立雪谷中学校」 と 校名改称
(平成元年4月1日発行:大田の学校より抜粋) |